昭和51年08月16日 大祈願祭
信心に修行は付きものであります。修行が大きければおかげも大きい。本当に暑いと思えば暑い。修行と思えば暑いけれども有難い。皆さん特に今日は大祈願祭。祈願願いの祭りですから唯お願いします、お願いしますではなくて修行が伴うて、始めて願いが私は成就すると、只お取次ぎを頂いて置けば良いと言うものではない。どの様な修行でもさせて頂きますから、どうぞと言う私は願いでなからなければいけない。
もともとこの夏の祈願祭は九州の桂先生の御信心の流れを頂いて居る教会で、今日迄続けられて居ります色々な、まっ言うなら名称ですか名目が御大祭の、けどもここでは何処までもあの祈願一本で行きたいと、桂先生が御本部の御造営を思い立たれる。それでどうでも、九州中に大御比礼を頂かなければならない、としてこの祈願の御祭りをなさったのが、この夏の祈願祭の始まりだと言われて居ります。
その時の桂先生の御祝詞の中に、飛ぶ鳥も翼なしには飛べません。どうぞおかげを頂きたいと思いましても、御造営なら御造営の献納のおかげを頂きたいと思いましても、それこそ翼がなければ飛ばれん、有るものがなからなければ御用に立つ事が出来ませんと。どうぞ九州中に向こう何年間、一大御比礼を見せて下さい。現して下さい。と言う願いをなさった。その代わりこの桂松平で出来る修行なら、もうどの様な修行でも厭いません。私はネ願ったからにはここが要ると思うんですよ。
ある時にもう二十年も前だったでしょうか、私がこの桂先生のこのお話をさせて頂いた、どの様な修行も厭いませんと言われる、桂先生の御修行と言うのは、どうゆう御修行であったで在ろうかと、御祈念中に思うて御祈念をしておったら、御心眼にあのおばやけと言うのがあります。鯨の昔今はもうはげらかして有ります。すぐ味噌か醤油か掛くればいい様になって居ります、けれどもあの時分はもう薄く切っただけの、だからそれにネ熱湯を注いで居る所を頂いた。そして氷水で晒して居る所を頂いた。
もう本当に感激しましてねその方が桂先生と言う方は、どう言う御修行なさったんだろうかと思うたらネ、あれがおばやけがこう剥げるまで熱湯を掛けたり、冷たい水を潜らせたり、そしてもうそれこそ人間この位の事は人間だから、もう人間的な物は全部油が溶けてしまう、までの御修行なさったと、言う意味に頂きまして、私もそれを聞いて感激した。だからそう言う大願を立てれば立てる程、どんな修行でも厭いませぬから、と言うものがなからなければ。
言うならば御かげの受け物を作らなければ、と言うので御座います。先月から夏期信行が一月間もうそれこそ、ここ一杯一時ともなると、もう割れる様な勢いで皆さんが大抜い信行をなさいました、その信心の一つの目当てを太くなろう、痩せ切れておってネいかに力んだ所で、力が着く筈は有りません。先ず力を頂きたい。為には太らなければならん。相撲取りがこんなに大きな身体をしとるけん、あれは相撲取りにしたら良かろう、そう言う太い身体で鍛うから力が愈々着くのです。
ですから先ず私共の心が太らなければならん。小さい事にイライラしたり、腹が立ったり、もう心が小さい証拠なんですな、だからそう言う都度にさあ大きゅうなれ大きゅうなれと、神様が言いござると思うて太る修行、まあ一月間そこに焦点を置いて信心させて頂きましたら。ここの御信者の上にもそうでしたけれども、ここの支部の方達又はここの関係教会の先生方まで、もう先生今月はもうちょっと信者の上にも大変な事が色々起こって来るし、教会の上にも様々な事が起こって参りましたけれども。
それは日奈久の富永先生です。丁度二十九日にいつも月末の御礼に出て見えられる。そう言う御届けでした。しかし富永先生御かげ頂いちゃるですばい。今月は合楽の芯がね太くなれ太くなれ、と言う事ですから、もうそんな事は問題じゃない位にならせて頂くと言う事が太くなる事なんです。もうこれにいっぱい何かと、今日親先生御理解頂いてから、もう胸がもう一遍にそれこそ着いた物が落ちた様に、すっきりしましたと言うておられます。もう太くなったから太くなったらネ。
腹が立たんの苛々しないの、だからだから太る。太っただけではいかんから、今月はイヨイヨ太く今度は豊かになろう、と言う一つの信心スローガンを掲げて今月の夏の祈願大祭もある事だから、皆その事に取組ませて頂いております。人間は万物の霊長で在るから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰せられるが、金光様の御信心程道理に合う信心はありません。もう私達は他に知りません。
この信心をすりゃあ肉やらは食べられない、豚は食べられるばってん、牛は食べられない牛は食べられるけれども、豚は食べられない殺生してはいけない。こう言う宗教すればお酒は飲んじゃあいけない、もう、極端に本当の修行を身に付ける為には、言うならば、妻帯すらも許されない、と言った様な険しい、厳しい戒律を持った宗教が在ります。けれどもどんなに考えても、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心とは思われん、それこそ生臭けも取って良い。
お酒も頂いて良い妻帯もして良い、但し大酒大食は絶食の元になると、戒めて居られます。頂いても良いけれども、食べ過ぎちゃならん、し過ぎちゃならん。この辺の所のブレーキが効かなければ、矢張りいけません。それが命取りの事にならんとも限らんのですから。取り分け私は思わして貰うのにネ、道理に合う信心と言う事からです、感じますのに小さい受けものを持って来て大きなおかげを下さいと言う程、道理に合わない事は無いと思うです、大きなおかげの受けものを用意して。
そしてこれに一杯のおかげを頂かして下さい。今日も椛目の宮崎さんが朝の御祈念に参って来てお届けをされます。先々月もう夫婦でもう本当に、もうそれこそ生きた心地のせんごたる、家庭に修行があった、もう夫婦で一生懸命にもうそれこそ朝、昼、晩のお参りであった。私が手を叩いて喜んだ。宮崎さんそこを通らにゃ解らんもんのチ、先生あげな事を言いなさるけどもう親の身になって、見ればそんな訳には行かん、そこが良かとこと言う訳で、もう一ヶ月間御修行されましたがネ。
もうそれこそ見事な御かげで御座いました。もう夢にも思わない様な御かげに展開して来ました。所がその頃からお父さんの方が胃が悪くなって来た。前も一回手術をしとりましたが、今度も又手術をされましたが、丁度十三日の日に退院の御かげを頂いた。もうそれこそ神様がこう言う、お父さんの言うなら命を頂かなければ、ならんから一月家庭のある問題、様々な問題を持って夫婦の者に一生懸命の修行をさせて御座ると言う事は誰でも合点が行きゃしませんか。
御かげを下さる前には必ず修行をさして下さるんです。受けものをつくらして下さるんです。もうそれこそ医者がたまがる様な御かげ、しかも十三日に退院の御かげと言う。如何に神様の願いであり、神様のはたらきの中にあれもあったのであり、これもあったのである。先ほど若先生が言っておった様に、あれもおかげであったこれもおかげであったと分った。そうして今朝からのお届けに出て見えてです、先生今朝からネそのう御祈念中に御しんがんを頂いた。
水道の水がどんどん出よるとを、こうやって閉めよる所を頂いた。だからおかげをね所謂おかげの遠慮をしてはならない。自分の心の中にはぁこう言う様な事がおかげを断る様な事ではなかろうか、折角お恵みの水がどんどん出ておるのを、受け物さえ持って行きゃ、なんぼでも、それこそプールの様な大きな受け物でも、そこを満杯にする事が出ける様なおかげが受けれるのに、自分で水道を捻って止める様な事を心の中に考えてはおらんか。先月もあんな修行をさして貰うた、今月もこんな修行をさして貰うた。
やれやれお父さんが退院の御かげを頂いた。ずうっと目が覚めよったのが、この頃覚めんごとなった。人間ちゃ楽になるとすぐそげんじゃね、だから信心とはねそういう言う修行が、もう楽しゅうなり有難うなる所まで行かなければ、本当なおかげは受けられないと思うね。先日か、ここの岩水と言う所からお参りをして参ります、あの顔に何普通のふやけとも言うでしょうか、今日もお参りして居られると思うんですけれども、そのお孫さんを連れて、もう現代の医学ではいけない。
娘さんが嫁入っておられる先ではホヤケ専門の神様がござるげな、いろんな神様がござるですネ、ホヤケ専門の神様の事。そういやぁですね、あのうこうやっぱりコブ取り専門の神様もござる。私共が椛目の向こうに島ちゅう所が有るんですがネ、あすこにはイボ地蔵さんちゅうがある、あのイボ専門の地蔵さんです。けれども矢張り専門医に掛かったけれどもダメだったと言うので一生懸命に合楽に参って来た。
その方がお参りを丁度月次祭の明くる日、月次祭にはお参りが出けなかったからと言うて御礼参拝して参りました。先生今朝方からもう妙なお夢を頂いた。どう言う夢でしたか、それが合楽の御広前にお引き寄せを頂きました所が、ここに一杯沢山の方達が丁度大祭後の御直会を頂かれる様な情景の所であった。そしたら末永先生が出て来てから、ここに入る為にはネ、ここに入る為には、顔に印をば入れとかにゃいかんと言うて、顔にこう墨で印を入れて貰った。
そしたら見る見るうちに顔が、こうやって歪んでしもうた、処がここにいっぱい居った人達がうわあっと一編に声を上げて笑うた。もう居り場がない様な思いで自分の席にこう、着かせて頂いたら、親先生が大きなスイカを八つ切りにしたと思われるスイカを、吉松さん、と言うてから持って来て下さった。それを親先生勿体ないと言うて、おし頂いて三分の一も食べない中に顔が綺麗になった。
歪んでおった顔が元通りになった。何ちゅう有り難い事じゃろうかと思うたら前に御直会の言うならば寿司の御弁当が置いてあった。その御寿司の弁当を頂く処で目が覚めたと言うのです。もう私はねもう、これは合楽の信心がその御夢の中に全部、この事を良く解ったら、合楽の信心が解ると思うくらいであります。お互いが難儀と言うとりますけれども、後から考えて見るとね、御徳を下さろうとする、御かげを下さろうとする、神様の演出より他に無いのです。
難儀と言うものは、はぁめぐりのせいと思いよったが、成る程めぐりかも知れんけれども、そのめぐりが大きければ大きいだけの信心が出けた。修行が出けた。そして誰もが真似の出来ない力も、御徳も受けたと言うのですから、神様が言うなら末永先生を使うて顔にね、真っ黒い墨で塗ったりね、顔よがんだりしたのはです、神様がそうさせなさった。だから皆さんがね、私だけがどうしてこんな難儀をせんならんだろうかと言う時には、本当なおかげ、いや信心が解っとるとは言えません。
それは痛い事は痛い、苦しい事は苦しい、もうそれこそ貧乏でもすりゃあ、もう本とに貧より辛いものはないと思う位に辛いけれども、辛いけれども信心させて頂いてるから、有り難い。神様がこう言う修行をさして下さった暁には、どげな御かげば下さるじゃろうかと言う様な心が起こってくるんです不思議と。ですからその修行が修行じゃないです。暑い、暑いと言うて居るけれどもです、本とに私共がそれを修行と受けさせて頂いたら、暑いこた無いです。
私共椛目で御かげを頂いて居る時分には、もうそれこそ暑いの暑いのと言うてもうもうあの毎日下から上まで、じっくり座っとる座布団まで足の型が着く位に暑かったです。椛目はそれこそ背中からダラダラとです、それこそ熱い様な汗が流れて居りますと、前の方からはそれこそ熱い喜びの涙が零れたです、ほんとですよそれが修行と思うからですよ。それを神様がね修行させて修行信心には修行が付きもの。その修行に御かげは付きもの力が付きものお徳が付きものと言う事を知って居るから有り難いのです。
足が痛いのはぁ夏が暑いのと言わずとはそれはまた、言うなら夏は暑い事と決まっとる、けれども暑いのが修行として頂いた時に、それこそ夏も又涼しい。冬も又それこそ一枚二枚と着物を脱いで良い位に暖かなるもんです。人が神の事をとやこうと言うけれども、人の口には戸は建てられん、神が顔を洗うてやるそう言う御理解を頂いた朝で御座いました。そん時に吉松さんが有り難いね、丁度私が昼の午後の奉仕をしておったとこで、二十名余りの方達が朝の御理解を頂いて居りました。
それで私はわざわざここから下りて行って、そして皆さんそのこう御理解頂き終わったらね、今吉松さんがこげなお夢を頂いたげなよと、ですからそこにせっかくの御かげの手本と言うものがあるから、楽しんで参って来るんです。参って来て居る内に段々と信心が解って来る様になるのです、それこそ人がどうっと声を上げて、みんなに笑われる様な所も通ったけれどもね、親先生がスイカを持って来て下さった。
そのスイカを三分の一も食べない内に、今迄の汚れは何処へやら歪んだ顔はまともになって、これは有難い勿体無いで前を見た所が、前には寿司のお弁当が置いてあったと言うのです、スイカと言う事は私は修行と言う事、水火も辞せんと申しましょもうそれこそ桂先生では無いですけれども、火の行水の行は厭いませんと言う事。今合楽ではそう言う表行と言う事を全廃になって居りますから、心に感ずる所のこれが火の行でもあろうか、これが水の行でも有ろうかと思われる所をです。
今朝の御理解がそうです。雨が降るからえらい大儀と思うちゃならん、風が吹くからえらいと思うちゃならん、その辛抱こそが身に徳を受ける修行だと、身に徳を受ける修行なのですから、楽しい事なんです。その例えばスイカをね、もう頂こうと言う気になった、全部頂いて無い三分の一を頂いた時にはもう、既に神が顔を洗うてやると言う程しの御かげを受けておられる。と言う事なんですこのお夢を皆さん、ようと覚えていたら合楽の信心はこん中に入ってしまうです。
日々の中にさまざまな雨もある、風もありますだから雨はイヤ、風はといとう心では信心は出けません。起きて来る言うならば一切の事柄を神様の御働きとしてね。私はこの頃から泉尾の教会、まあ名実ともに日本一と言われて居ります。あちらも来年は五十年の記念祭と言うので、この頃から壮年大会が開かれた、丁度私の方と前後して開かれた。家辺りが百三十名でしたか青年会の方達も入れて、百五六十名でした。それでもやっぱり新館が一杯になりました。
所が何と井出緒泉尾辺りでは三百五十名か、その次に婦人大会が行われたそうですが、二千名からの人が集まった。大祭ともなると何日間も何万の人がお参りすると言うんです。どうもその先生が言うて居られる事が解らん事ばっかり。何か言うとんなさる様な気がしよったけれども、たまたまあちらの御本を読ませて頂く機会を得ましてね、願って願ってと言うその言葉をたくさん使います。もう何でもの願いに立てと言うのです。ヨーロッパの方へ色んな宗教関係のあれで、おい出られた時に。
あちらのキリスト教の一番偉か人を、何ち言いよったかね、あれにこの面接された、そしてその自分の願って、願ってと言う話をなさったけれども、それを大変軽く見て受付なかった。あの解らなかったと言うんです。帰って来て大変憤慨してから、広島の大祭の時に先生がお話になっておる、御説教を読ませて頂きました。こう言う素晴らしい、この信心をネ、金光教の信心は願って願って、願い抜いてそうしておかげを頂いて、この御かげを人間である以上願わん者があるか。
願う事がおかしいとか、おかげが品が悪い、とかと言う様な事は絶対に有り得ないんだ。神様もやって喜んで下さるんだ。それこそ張る乳を抑えながらもう、親は愛しゅうて堪らんち言いよるとじゃから、だからこれに縋って行って、これを飲むなら親も喜ぶですね、だからその道理を話すけれども解らなかったと言うて居られます。私もやっぱあ願って、願ってじゃ解らじゃったじゃろうと、そん時思いよったけれども。
段々解らせて頂いた事はね、今度の新発足と同時にあの祈願詞が出けて参りました。あの祈願詞を皆さんが毎日、祈願の言葉を上げて居られると思いますけれども、「神の働き、そのままに」と言う所があります。私はそこを読ませて頂いておる時に、泉尾の先生の願って願って、何でもの御願いに立てと言われる事が解ったんです。人間のどう言う難儀な問題であっても願うと言う事なんです。
どう言う難儀な問題でも、願われると言う神様なんです。その代りに神様私の上に起きて来る事を、神様の御働きそのものも願い抜かせて頂き抜かせて下さい。と言う願いだと言う事が解りました。ははぁそれで本当な事が解った、だからこそあの御比礼だと、改めて解らして頂きました、いわゆる成り行きを大切にするとか、尊ぶとか言うがネ尊んで頂ける、しかし頂けない事があるけれども、神様にね頂き難いんですは、これば頂きゃ損する事もあるしね。
恥ずかしい思いもしなければならん事も有るけれども、それを願って願って頂いて行く、頂き抜かせて頂く信心を出けてネ、どう言う願いでも願えれると言うならば、その願っての信心の内容には受け物を受けると言う事と、おかげを受けると言う願いが二つある事が解った。だからずうっとこう言う御かげを頂かして下さいと言う願う前に、起きて来る一切の事柄も又、おかげを頂かして下さい。この頃から父の日に私に贈り物をして下さった。私は古風な物が好きな物ですから額を頂いた。
それには「養素」と書いてあった、養う素と書いてある。朝の御念の時にその事をあの、ぽっと心に思わせて頂いたら、あの拝山と言う人が書いて居るんです。二日市の大正時代の絵描きさんだそうです。けれども字もとてもそれこそ巧みのある字を書いて新館に上げさせて頂きましたが、、その養素人間の心が豊かになるとか、太るとか言うその素と言うかその養素になるのは、拝山に有りと言う御理解を頂きました。拝山と言う事は山を拝むと書いてある。山と言う事はここでは修行と言われます。
山登りと言う事やっぱきつい、きついけれども頂上を目指す事は楽しい、視野が段々と広うなって行く自分が高められて行く、きついけれども矢張り頂上を目指す、言うならば若い方達が重いリュックを担いで登山をする様なもの、信心させて頂く者はこの修行を厭うてはならない。イヤむしろそれを拝んで受けて行かなければならない。それが養素だと言うのです。心を養うて行く時にはこれに限るのだ、これが一番だと言う訳なんです。そう言う信心を、例えば出尾の先生はそれこそ。
何でも願いに立って、何でも受けて行く方の願いも又、なさって居られるからこそ、あゝ言う大変な御比礼を受けて居られるのだと思います。桂先生の御信心に於いても同じ事、神様どうぞ、こう言う御かげを頂きたい。しかも私事では有りません。御本部の言うならば、御造営兎に角御本部に行って、余りにもみすぼらしい御広前に、もう本当に相すまんと言う一念から御造営を思い立たれた。
其処に言わばこの夏の祈願のお祭りがございます。その代わりには神様どの様な修行でも厭いませんと言う、それこそオバヤケが油を抜かれて、熱湯を潜り氷水の中を潜って行く様な修行も又厭いません。そしてそこには何が有るかと言うと、桂松平先生の神格だけが、どんどん高められて行く。人間臭さが抜けて行って居る。愈々小倉の明神様と言われる程し御神格を頂いて、おいでられたと言う事です。
皆さん例えば祈願祭がね、只祈願祭では無くて、皆さんが色々に持って居られる願いがです成就する。確信の持てれる私は祈願でなからなければいけないと思う。為にはね暑いとか寒いとか、言う位な事ではなくて、それを拝んで受けれる心の状態を鍛えて行く所に、信心修行が有ります。今朝の御理解の中に、昨夜前夜祭が奉仕された後に、富久信会と言う会が御座います。それが丁度十五日ですから、続いて富久信会に私も出らして頂きました。合楽で御商売をして居る方達の会なんです。
そこで最近宮崎の網さんと言う方が大変おかげを受けておられる。もう本当にほんな事じゃあるか、と言う様なおかげを受けとられる、もう何処も貸す所が無い、銀行も行く所には行ってしもうた。けれども宮崎市に残っておる、二つの組合と何々銀行とがあるが、もう一回最後のお願いに行きたいと思うが、どちらを取らして頂いたら良かろうかと、電話があった。だから私は○○信用組合と言う事を言うてやった。それから○○信用組合に行った。その手紙を持って行かれた。
始めての事ですから支店長に面接を求められて、どうかこの手紙をご覧下さいこれは私は合楽の信者で御座いますけれども、親先生からここの組合に行けと言うて、これはその御神意書で御座います。もうこりゃは網さん独特の言葉で御神意書、そしたらその支店長が見たと言うんですから。あんたぼうけちょらんですか、銀行に行ってから何が御神意書、のと言うたっちゃ良かとこです、所がその支店長がそれを見らなければならない様な事が、其処に起きて来たと言う事なんです。
網さんて言う方あんた始めてこうお会いするだけです、けれどもしかし合楽の金光様と言うのは大変な金光様ですばいなあ、と仰ったち。今までねこの電算機が動かなかった、貴方が入って来られると同時に、この電算機が動き出した。それからもう受身で聞いて下さるからもう何も彼にも無い、金額は四百万でしたけれども、もう本当にアッと言う間に貸して下さった。そしてねわざわざ私の方を指名して言うて頂いた。
合楽の金光様に、今度貴方がお参りになる時には御供えをさして頂きたいから、あの知らして下さい。この前の先月お参りの時にその銀行の御供えを預って見えられました。まぁ言うならそう言う話がここ八ヶ月の間にですネ、去年の暮れのもう押し迫ってからでした。夫婦で参って見えてもうそれこそもう、おは打ちからした意気消沈してのお参りでした。私昨日その宮崎の一組が一緒に参加して聞きましたんですけれども、先生あん時にはもう網さん達夫婦ね、一万円しか無かったげな。
そん一万円の金を持って合楽にお参りした。それから旅費出してそして御供えさせて頂いたら、もうそれこそ何にも無いと言う所から、倒産をせんばい御かげ頂きなさい。一生懸命お縋りしなさいと言われて、それに力を入れて倒産所か段々繁盛の御かげを頂いて。二百数十万の税金が、もうほんと紙一重で払わんで済む様になったり、この頃から売っておった株を買い戻さなければならん事があったが。
それが不思議に買い戻す事が出けたり、しかもそれを向こうの方へ持って行ったら、その株がなからなければ、その何々食料品組合と酒屋の組合が合同する事が出けないと言う事であった。もうそこの専務が喜ばれてネ、十二倍の金額で買うて下さった。まぁちょっとこの位にしときますけど、もうそりゃほんなこと言うと、ほんなことしらごつのごたる。処が私が頭が悪かもんじゃけん、その度々その手紙がこう来るです。
でも私が読みよると途中から解らんごとなるです、もうここまで書きましたら感涙にむせんで先が書けませんち書いちゃる。いつもそんなに感動しながら、御礼の手紙を出して居られる。先日なんかは丁度私共で屋根の工事をして居りますから、お金が三百万急に取りに来たんです。盆だからと言うて払わんで良か筈じゃった、処が金が百万円しか無かった、だから百万円だけでどうしてん足らんち、そん時に網さんからその送って来たのがです、そん時の差額の二百八十万余りのお金でしたから。
それを通帳とハンコと一緒に合わせて送って来て下さったから。言うならばそれを言うならば断らんで済んだと言う様な、もう、先の先まで御かげ下さった神様が。だからそう言う御かげを言わば頂いて居られる。言うならばです私はこの頃朝の御祈念にリラックスと言う言葉を頂いたんです。こっちがその学の無いもんじゃけん、どげなこつか解らんそこで前に座っとられる高橋さんに聞かせて頂いたら、まぁリラックスと言うのは兎に角あの、気楽な気持ちだと言う次にシャープと言う事を頂きました。
だから私共がねリラックスになると言う事がね、次のシャープな御かげになる、繋がるんです。もうこの人の場合なんかはねどう言う事が、昨日そのう事を取り上げまして、だから末永先生が、そのういつもの手紙を書いたりして居りますから、先生が全部自分がそのう手紙を読んで、こう言うおかげを受けて来て居るが、こう言うおかげが何処から生まれるのか、どうしたならばこう言うおかげが頂けるのか、本当とは思われない様なおかげが頂けるのかと言う事を昨日は検証した訳です。
そして愈々まぁ煎じつめて参りましたらネ、兎に角もう親先生にお伺いをしたり、お願いをしたらね、後は楽になって居られると言う事です。親先生が右と仰ったから、右にした処に何時もおかげになると確信して来られたからです。次にはねこの人は手紙にに合楽教会親神様と言う手紙が来るです。始めの間は天地金の神様の事じゃろうち、話よりましたたい。処が来るたんべんにその私の事を親神様って言うて居られる訳なんです。矢張り金光様として頂きゃあ金光様のおかげ。
親神様としての頂き方が出来りゃ、親神様のおかげだと言う事が言えますね、そう言う事にあるだろうと言う様な、まぁ結論が出たんですけれども、そう言う例えばおかげをです。最後に頂いてもそんなら先生貴方が死になさったならば、こげなおかげは誰でん頂かれんですばい、とこう言う事になった。やっぱそうかも知れません。そこで合楽でお互いが長年稽古させて頂いた、いわゆる天地日月の心になる事肝要だと言う信心。それをもう少し砕いて言うと、成り行きを尊ばして頂く。
大事にさして頂く一切の事柄に御の字を付けて行こう、天の心とは地の心とは、日月の心とは、とそれを追求して行くところから、神の心を心とする信心ですから、おかげを頂かん筈、いや徳を受けない筈がない、そう言う信心を受けてそしていわば、いよいよの時には奇跡と思われる様なおかげも又、頂かなければならないと言う事になります。だからその二つが足ろうて行かなければならんと言うので、昨日は丁度十二時過ぎまで、検証さして頂いた事で御座います。
只々奇跡的なおかげだけを願えば、それはおかげを下さるかも知れません。けれども、それはそれまでの事です、だからそれの受けられる所の受け物、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心、受け物も持たずに下さいと言う事、こんなに道理に合わない話がありますか、受け物を作れ百の受け物を作りゃ、百じゃ千の万の受け物を作りゃ、千も万ものおかげが受けられるんだと、教えて居られるのです。
その内容としてです、もう人が例えば笑おうが、どう言う難儀な事が雨であろうが風であろうが、そこを受け抜く所の修行の姿勢が先ずは、出けなければならないと言う事で御座います、そう言う物が要素になります。心豊かにする、又は太らせる所の素になります。愈々拝山です山を拝んで行く信心にならせて頂いたら、愈々豊かになり大きくなれば大きい、豊かな御かげが約束される事も又これは道理であります。
今日の祈願祭を通しまして、もう繰り返し皆さんが頂いて居られる。今日の例えば御理解でも、なぁ先生の御話は何時も同じ事と思いなさるかも知れませんけれども、昨日信徒会長が言うて居りました、最後にこれ程しの教えを頂きながら、これ程しの事を噛んで含める様に頂いておって、それが身に付けられんで居る所に、網さんの様な御かげが受けられんのだ、網さんの様な心の状態が頂けんのだ。
と言うて最後に締め括っておりました。ですからこの受け物を作ると言う事は、そのまま徳を受ける事であり、力を受ける事に繋がるのです。そこに言うならばシャープな御かげを頂くと言う事になります。神様を信ずれば信ずる程、どう言う様な事であっても、今朝朝の御祈念の時に、あんなお湿りで御座いましたから、あの神様にお願いさせて頂いて居りましたら、シャープな御かげと言う事を頂いた。もう胸がスーっとするごたる、御かげになるぞと言うのです。
本当に一時間ばかりの前に雷まで伴うての、ここ辺りは大変な豪雨でした。けれども御かげを頂いて、暑いけれどもまあ凌ぎよい御かげを頂いて、今日いわゆるシャープな御かげなんです、だからそう言う只御かげだけを願うのでは無くて、そう言う御かげを頂けれる為に一つお互い、リラックスにならなければいけません。一生懸命修行をすると楽になります。御取次ぎを頂くとあゝ親先生に御取次ぎを頂くと、心配ももうここに置いて帰られます。だから御かげを受けるのです。
どうぞ。